トム・ウェッセルマン (Thomas K. Wesselmann、1931年2月23日 - 2004年12月17日)は、絵画やコラージュ、彫刻等におけるアメリカのポップアート運動に携わった芸術家。
経歴
1931-1958年
ウェッセルマンはオハイオ州シンシナティで生まれた。
1949年から1951年にかけ、最初はハイラム・カレッジ、次いでシンシナティ大学で心理学を学んだ。1952年にアメリカ陸軍に徴兵されたが、その間は国内で過ごし、最初の漫画を描き、漫画制作に興味を持つようになった。
1954年に除隊。心理学の学位を取得したのち、Art Academy of Cincinnatiで絵画を学びはじめた。その時、雑誌「1000 Jokes」「True」に最初の漫画を売り込むことに成功している。
1956年、クーパー・ユニオンに就職したのちもニューヨークで勉強を続けていた。MoMAを訪れた時、ロバート・マザーウェルの「スペイン共和国へのエレジー」を観たとき、初めての美的体験、胃袋がこみ上げるように興奮し、目と胃袋が直結したように感じていたという。
また、ウィレム・デ・クーニングの作品は評価したが、アクション・ペインティングは受け入れることができなかった。ウェッセルマンはクーニングを評価した自分自身を否定し、できる限りその反対方向へ情熱を傾けるなければならないことに気がついた。
ウェッセルマンにとって1958年は転機の年であった。クーパー・ユニオンによるニュージャージーの農村部への風景画旅行は、漫画から絵画の道へ進むことを現実のものとした。
1959–1964年
大学卒業後、ウェッセルマンはマーク・ラトリフ、シンシナティからニューヨークに着いたばかりのジム・ダインと共にJudson Galleryの創立メンバーの一員になった。 ウェッセルマンとラトリフはジャドソン・ギャラリーの二人の展覧会でいくつかの小さなコラージュ作品を展示した。彼はブルックリンの公立学校で芸術を教えはじめ、後にHigh School of Art and Designで教えている。
1961年に始まるウェッセルマンの「グレイト・アメリカン・ヌード」シリーズは、美術界で最初に注目させた。
「赤、白、青」に関する夢を見たことで、「グレイト・アメリカン・ヌード」ではこれらの色に限定し、金やカーキ色などの愛国的なモチーフを使うことにした。
このシリーズはアメリカの風景写真やアメリカ建国の父の肖像を取り込んだ愛国的なテーマを具象化した。
これらは度々雑誌や捨てられたポスターでコラージュされ、より大きな作品となっていった。そして大きな作品になるにつれ広告を獲得するために広告主に直に接近していった。
ヘンリー・ゲルツァラーを通して、ウェッセルマンにタナガー・ギャラリーを展覧会場所に提供したアレックス・カッツと出会った。ウェッセルマンの最初の個展はその年の後半に開催され、大小の「グレイト・アメリカン・ヌード」を展示した。
1962年、リチャード・ベラミはグリーン・ギャラリーで個展を開催させた。ほぼ同時期にレオ・カステリ・ギャラリーのアイヴァン・カープはウェッセルマンに数人のコレクターと接触させ、ロイ・リキテンスタイン、ジェームス・ローゼンクイストの作品について話した。これらはウェッセルマンの作品とは全く似ていないものだった。
結束した運動ではなかったが、ポップアートのアイデアは美術評論家や大衆の間で徐々に拡がって来ていた。ヘンリー・ゲルツァラーは「約1年半前、ウェッセルマン、ウォーホル、ローゼンクイスト、リキテンスタインのスタジオで作品を観た(1961年7月までには)。彼らはお互いに気付かず独立して制作していたが、想像力は共通のものであった。1年半の間に、彼らは展示会を開き、運動を作り出し、この点について話し合っている。これは芸術の歴史的な瞬間であり、芸術が芸術そのものの飛躍に気がつく瞬間であった」としている。
1962年11月、シドニー・ジャニス・ギャラリーはジム・ダイン、ロバート・インディアナ、ロイ・リキテンスタイン、クレス・オルデンバーグ、ジェームス・ローゼンクイスト、ジョージ・シーガル、アンディ・ウォーホルら、ヨーロッパのアルマン、エンリコ・バイ、クリスト、イヴ・クライン、タノ・フェスタ、ミンモ・ロテッラ、ジャン・ティンゲリー、マリオ・スキファーノの作品を含む「New Realists」と題する展覧会を開催した。それはパリのギャラリー・リベ・ドロアのヌーヴォー・レアリスムの展覧会に続くものであり、やがてイギリス、アメリカ、ヨーロッパのヌーヴォー・レアリスムにおいてポップアートと呼ばれるようになる芸術家の国際的なデビューになった。
ウェッセルマンは「New Realist」展の一員となり、1962年の「静物 #17」「静物 #22」を出品した。
ウェッセルマンは自分がアメリカのポップアートに含まれることを決して好まなかった、彼の日用品を消費財としてではなく美的に使った点において「一般的に、とりわけポップとレッテルを貼られることは嫌い。それらの材料を使うことが強調されすぎているからだ。彼らは同じ材料や画像を使う傾向であると見なされるが、彼らとは異なる考えなのだ」
その年、ウェッセルマンはアッサンブラージュとして知られる新たなコラージュによるシリーズの静物画の制作をはじめた。「静物 #28」では、電源の入ったテレビが含まれ、動画や光や音を発していて絵画の一部となっている。
彼は異なる要素や描写を並べることに集中し、それらはまさに彼を興奮させた「それらは全く異なるものなのではなく、それらがもつオーラによるものなのだ。リンゴの絵の隣りにあるタバコの絵は私にとって十分ではない。それらは全く同じもの。しかし、もし一つがタバコの広告でもう一つがリンゴの絵ならば、異なる二つのリアリティがそれぞれを利用し合うのだ。この種の関係は絵を通して勢いを与えることになる。一見すると、私の絵は静物画のようにふるまっている。しかし、これらのものは途方もないやりとりをし、とてつもなく熱狂するのだ」
1963年11月、ウェッセルマンはクレア・シェリーと結婚した。
1964年、ギャラリーオーナーのポール・ビアンキニのアーティストでありビジネスパートナーであるベン・ビリージョは、ニューヨークのビアンキニギャラリーで開催する「The American Supermarket」ためにウェッセルマンや他のポップ・アーティストに連絡を取った。これは大きなスーパーマーケットで行われるインスタレーションで、ウォーホルのキャンベルスープ、ワッツのワックス着色された卵などを実際の食品やネオンサインの中で展示されたものである。
同じ年、ウェッセルマンはフォルクスワーゲンの始動音を含む風景画の制作を始めた。この年にはシェイプト・キャンバスによるヌード作品も発表された。
1965–1970年
この頃の作品「グレイト・アメリカン・ヌード #53」「グレイト・アメリカン・ヌード #57」は、官能性がより強調、明らかになり、まるで再発見された彼の新たな性的充足感を祝うかのようである。
彼は風景画も続けていたが、「グレイト・アメリカン・ヌード #82」のように、絵画の他に、描線ではなくアクリル樹脂成形による3次元女性像も再制作している。
彼の創作の中心はより大胆になり、1965年に始まった「口」、続く年の「海景」シリーズなどのように、一つの対象に集中していった。他にも新しく「ベッドルーム・ペインティング」「スモーカー」も発表され、後者は彼のモデルによるものである。「スモーカー」シリーズは1970年代において最も採りあげられたテーマであった。
1965年になると、ケープコッドでの休暇中とニューヨークで「海景」に油彩の習作を制作している。彼のニューヨークの新しいアトリエでは、それらを大判作品に引き延ばすための古いプロジェクタが使われた。「ドロップ・アウト」シリーズと呼ばれるこれら一連の作品は、胸まわりを余白として配置して構成されている。
胸と胴体で片側の枠とし、腕と脚で2辺の枠を形作っているこのシリーズはは1970年代に最も採りあげられたテーマである。彼はシェイプト・キャンバスの制作を始め、大判作品を増やしていく選択をした。
彼は「静物」と「海景」と平行して「グレイト・アメリカン・ヌード」の中の「ベッドルーム・ペインティング」に取り組み続けた。これらの作品で、ウェッセルマンは花や物に囲まれた手、脚、胸のような細部に集中し始めた。
「ベッドルーム・ペインティング」はヌードにおける細部への比率を高めていった(これらの物はヌードでは小さな扱いであるが、のちには大きな主題へと変化していった)。
壁の後ろ側に隠された女性の胸は、ウェッセルマンによって彫刻された静物要素で「Bedroom Tit Box」と題され、これは「そのリアルさ、物体間の大小関係は「ベッドルーム・ペインティング」における基本のアイデアである」としている。
1970年代
ウェッセルマンは「静物 #59」という大型で複雑な次元で自立する5枚パネルの作品を作成した。ここでも構成要素は拡大され、電話の一部を観ることができる。マニキュアの壜が片側でひっくり返され、丸められたハンカチそばにあるバラの花瓶、ウェッセルマンの理想とする彼女としてのメアリー・タイラー・ムーアの肖像画で構成されている。これらはより匿名性を排除し肖像画に気付かせるものになっている。
「ベッドルーム・ペインティング #12」では自画像を描き込み、1974年の「静物 #60」ではおよそ26フィートの巨大な大きさを持つサングラスが口紅、マニキュア、アクセサリーとともに構成されている。同時代の女性らしさの小宇宙はウェッセルマンをして巨人症の域に達した。
彼の「スモーカー」は変化を続け、煙の中で光り輝くマニキュアの手に至った。
1973年、「グレイト・アメリカン・ヌード #100」をもってこのシリーズを終了。しかしもちろんウェッセルマンのヌードに対する官能性は議論の余地は無く、彼自身の言葉「絵画、性、ユーモアは私の最も重要なものである」からも皮肉な指針として絶えず明らかになっていた。
1978年、ウェッセルマンは新たな「ベッドルーム・ペインティング」シリーズを開始した。これらの作品は、全体に対して女性の顔が最前面に配され、対角線で区切られる配置という構図の統一化がとられている。
1980年代
1980年、論文『トム・ウェッセルマン』を出版、スリム・スティーリングワースというペンネームで自叙伝を書いたものである。彼の次女ケイトが生まれた。(既にジェニーとレインがいる)
1983年、ウェッセルマンは紙に描いた線が壁に掛けられるような感じで、金属で絵を描くアイデアを掴んだ。それは飾ると直接壁に描かれたようになるのである。このアイデアはウェッセルマンが要求する精度で金属をレーザーカットする技術が可能とした。彼はこのシステムを完成させるために投資する必要があり、完成に1年を要した。
「ドロップ・アウト」シリーズで始められたネガティブスペースは新しい中判作品に引き継がれた。それらは作品における黒と白のように、彼にヌードや構図の再構築を可能とした。
ウェッセルマンはその考えをさらに進め、カラー作品にも用いることにした。金属のカラーヌード作品と同様に、1984年には、風景画も大型化しアルミニウムによるものになっていった。
金属を使い様々な技術の試行錯誤によって、ウェッセルマンの手作業によるアルミニウムの切断作業は、彼の研究開発によって金属のレーザーカットにおける最初の芸術へ適用になった。このときコンピュータ画像はまだ開発されていなかったのである。
1990年代
ウェッセルマンの金属作品は変化し続けた。「マイ・ブラック・ベルト」(1990年)、70年代の主題、のように中判作品の力強い空間表現になった。
Drawing Societyはポール・カミングス監督により、ウェッセルマンによる肖像画やアルミニウム作品制作のビデオが撮影された。
「1993年からは、私はほぼ抽象画家になっていた。これはどういうことだろう。1984年に鉄やアルミニウムのカットアウト作品を作り始めた。ある日、数多くの切れ端に混乱し、これらの無限の抽象的可能性に打ちのめされたのだ。このとき、私が1959年に目指したものに戻るべきだと理解し、私は3次元の抽象画をカットメタルで作り始めた。求めていたものに戻り、幸せと自由を感じた。このとき、デ・クーニングのものではなく私の言葉になった」
この新しい抽象表現でウェッセルマンさまざまな手法を好み、手描きのようなメタルカットアウト作品も生まれた。
この時期のヌードキャンバス画は1960年代作品の再制作だった。「(それらは)予期せぬしかし大変満足する郷愁はウェッセルマンのキャリアの中でスタイルが急激に変化するまっただ中にある若い頃に戻ったようである。それら自己完結し完璧な作品は、60年代のモチーフを解釈し直すのではなく独立した作品にしたと言える。言い換えれば、新しい取り組みを開始したのではないということだ」。1999年、最後の「スモーカー」作品であるアルミニウムレリーフの「スモーカー #1 (3-D)」を制作した。
2000–2004年
晩年の10年は、心臓病によって健康は悪化していったが、作品は作り続けていた。
抽象作品は力強い線と原色を好んだ色使いの表現になった。ピート・モンドリアンの影響を自認し、「New York City Beauty」(2001年)のように彼の早い時期の作品タイトルを付けている。この頃、マティスの影響で比喩的表現と抽象的表現の境は小さくなっていった。
1960年、ウェッセルマンはフランスの巨匠の作品をMoMAの「Gouaches Découpées (Gouache Cut-outs)展」で観、40年後、「サンセット・ヌード」シリーズでそれに敬意を表した。2002年の「サンセット・ヌード with Matisse」ではマティスの「La Blouse Roumaine(1939–1940)」を描き込んでいる。ウェッセルマンは「ブルー・ヌード (2000年)」のようにマティスの作品を引用しており、シェイプト・アルミニウムの彫像としてシリーズ化している。
ウェッセルマンは心臓病の手術後、合併症のため、2004年12月17日に死亡した。 彼の最後の作品は「サンセット・ヌード (2003/2004年)」で、没後の2006年4月にニューヨークのロバート・ミラー・ギャラリーで公開された。
私生活
1957年、クーパー・ユニオンの学生だったクレア・シェリーと出会い、友人、モデルになり、1963年に結婚。2人の娘と1人の息子がいる。
没後
ウェッセルマンの没後、作品は改めて関心を呼んだ。Museo d’Arte Contemporanea Roma (MACRO)は2005年に回顧展を開催、総合カタログも作成した。
続く年、ニューヨークのL&M Artsは1960年代作品の大規模展示を開催。Maxwell Davidson と Yvon Lambertの2つのギャラリーは2007年に連携して「ドロップ・アウト」シリーズの展示を行った。これは、John Wilmerding作、Rizzoli出版の『Tom Wesselmann, His Voice and Vision』という論文発行と同じ時期である。
ウェッセルマンはカントリー・ミュージックのファンであると認めており、彼の作品では度々ラジオ、テレビなどが取り込まれていた。
ドイツのラーベンスブルクのStädtische Galerieで開催された「トム・ウェッセルマンとポップアート pictures on the wall of your heart」展(2008–2009年)では、彼の遺産により彼のバンドの音楽がレコーディングされた。
2010年には、Maxwell Davidsonではウェッセルマンのプラスチック成形作品を概観する最初の展示会「Tom Wesselmann: Plastic Works」が開催された。絵画の回顧展「Tom Wesselmann Draws」がニューヨークのHaunch of Venison Gallery、フロリダ州フォート・ローダーデールのNova Southeastern UniversityにあるThe Museum of Fine Art、、ワシントン DC.のThe Kreeger Museumで巡回開催。北アメリカにおける最初の回顧展は2012年5月にThe Montreal Museum of Fine Artsを皮切りに、the Virginia Museum of Fine Arts、the Cincinnati Art Museumに巡回した。
主な展覧会
参考文献
- Exhibition catalog: Galleria Flora Bigai Venice, Italy, S. Stealingworth, (aka Tom Wesselmann), 2003
- Honolulu Museum of Art, Spalding House: Self-guided Tour, Sculpture Garden, 2014, p. 16
- Fritz, Nicole (2008). Schwarzbauer, Franz. ed (de, en). Tom Wesselmann und die Pop Art : pictures on the wall of your heart. Ravensburg, Germany: Städtische Galerie. ISBN 978-3-936859-42-3
- Tom Wesselmann. Still Life, Nude, Landscape: The Late Prints.. London: Alan Cristea Gallery. (2013). ISBN 978-0-957508-51-4
出典
関連項目
- en:Shaped canvas
- ポップアート
外部リンク
- Tom Wesselmann Estate
- Tom Wesselmann Digital Corpus by Wildenstein-Plattner-Institute
- galerie-klaus-benden.de
- Tom Wesselmann Steel Drawing Editions




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